第二次世界大戦が始まると、東ヨーロッパ諸国ではユダヤ人迫害(虐殺など)が公然と行なわれた。 第二次世界大戦中のユダヤ人迫害は東ヨーロッパ諸国に共通する現象であった。 北はリトアニアから南はクリミヤまで、ナチス・ドイツ軍占領下の東ヨーロッパ諸国では、ユダヤ人迫害の為にナチス政権ヘの様々な協力が見られた。 それと共に、ソビエト政権の統治下でくすぶっていた極右民族主義者がナチスの方法をそのまま使ってユダヤ人迫害に当った。 ナチス・ドイツ軍占領下の東ヨーロッパ諸国では一般庶民と警察はユダヤ人殺害の為なら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかったと言われている。 リトアニアではドイツ軍が入って来る前に、極右民族主義者が独自にユダヤ人虐殺を始めていた。 リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万人で、生きながらえたユダヤ人はわずか2万人だけであった。 こうした状況の中で、西暦1940年の夏、リトアニアの日本領事代理:杉原千畝は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(日本通過ビザ)を発給し、6千人の命を救った。 彼に助けられたユダヤ人の多くは日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。
リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、ダッハウ収容所に収容されたが、アメリカの日系人部隊によって救出された。 彼はこの時の体験を著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。 彼は、ナチス・ドイツ軍が迫ってくる頃、偶然に杉原千畝に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。 そして、杉原千畝から早期の脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ、期を逃してしまった。 このことは正に一生悔やまれたという。 その後、彼は各地を転々としたあと、ダッハウ収容所に収容され、1945年5月2日に日系人部隊によって救出された。 ミュンヘン郊外にあるダッハウ収容所は、ナチスが最初に作った収容所であり、ナチスがドイツの政権を獲得した1933年に、ナチスの政敵や同性愛者や売春婦など非社会的とされた人々を収容する為に建設された。 彼は著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』の中で次のように記している。
リトアニアの臨時首都カウナスのユダヤ人たちに、わずかな希望を差し伸べてくれた当局者がひとりいた。 日本領事館の領事代理:杉原千畝氏である。 杉原氏は自分のキャリア、自分の名誉、おそらくは自分の命さえ危険にさらして、6000人を超えるユダヤ人を救ったのである。 第二次世界大戦の初めの2年間についての私の記憶では、杉原氏は暗黒の中の一条の光にほかならなかった。 杉原氏こそは、恐ろしい日々の間ずっと、私にとって、ひとつの変わらぬインスピレーションであり続けたのである。 この杉原氏の姿を最後に目にしてから5年後、しかも、私がホロコーストの世界から解放された正にその瞬間、杉原氏と同じ日本人の顔が目の前にあった。 何と不思議で、何と素晴らしい巡り合わせだろうか。 杉原氏の眼差し、杉原氏の笑顔に通じる何かが、死の淵から私を連れ戻してくれたアメリカ兵の温顔に見てとれたのだ。 雪野原から私を抱え起こしてくれたのは、『ニセイ』と呼ばれるアメリカの日系二世だったのである。 1945年5月2日のことであった。 その日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。 彼はアメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。 大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である。 彼らはイタリア、フランス、ドイツと、凄惨な戦場を転戦した。 この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。
第二次世界大戦中、自由と民主主義の国アメリカ合衆国にも強制収容所があった。 それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの日系民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる11ヶ所の強制収容所に収容された。 この日系人に対する強制政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。 この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった。 このことについて、ソリー・ガノールは次のように記している。
私の身の上を思うと、見落とせない運命の皮肉がもうひとつある。 松村ほかの日系人たちが、アメリカの為に戦い、命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。 住居や事業から切り離され、人里離れた土地にタール紙を張り巡らせて造られたバラックでの生活に追いやられていた。 アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名に過ぎなかった。
47年後の1992年、ソリー・ガノールは自分を助けてくれた日系二世兵士たちとエルサレムで再会を果たした。 ナチ時代に生き延びたことも奇跡的だが、半世紀を経た後の再会も奇跡であった。 彼は次のように記している。
1992年春、私は日系人部隊の兵士たちと再会した。 クラレンス・松村と私の再会の物語は、羽根がはえて世界中に流れた。 日系人部隊の存在も、彼らがドイツの収容所解放に果たした役割のことも、それまでほとんど知られていなかったのである。 このときからのち、私は、松村と彼の部隊にいた人たちと何度か会った。 イスラエルで、ドイツで、アメリカでも。 彼らと過ごすことのできた時間、ことに松村との数時間は感謝の念と共に思い浮かんでくる。 しかし、その松村は1995年5月、消しがたい悲しみを私に残して他界してしまわれた。 〈中略〉 彼らに会う度に、救出してくれた人たちについての知識と理解は深まった。 彼らには日系人収容所での体験があり、より広くはアメリカでの被差別体験があったからこそ、あの1945年春、松村と彼の戦友たちは、救出にあたった相手に対し、理解と同情の火花を特別に強く燃え上がらせたのではなかったろうか。 日系二世とユダヤ人の間には、何か特別な絆があるのではないか。 私に答えは出せない。 が、日系二世たちと日本人に対し、私が強い同胞感覚を抱いていることは確かである。
1995年に出版された『意外な解放者』(情報センター出版局)には次のように書かれている。
外務省は杉原氏の退職について「1946年から47年にかけて行なわれた行政整理及び臨時職員令に基づく機構の縮小の結果であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の3分の1が退職した」と説明している。 また、その言葉を裏付けるように、杉原氏は1944年にルーマニア公使館で勤務中に「勲五等瑞宝章」を受章し、退職までの間、昇給・昇進も順調に得ていた。 また、退職金・年金についても、不利な扱いは一切受けていなかったようである。
河豚計画に詳しいユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーは次のように述べている。
今日の日本では、杉原千畝が東京の外務省の方針に反して、ユダヤ難民を救う為にビザを個人的な裁量をもって発行して、その為、戦後、外務省を追われた、と広く信じられている。 しかし、これは全く誤っている。 杉原はカウナス(リトアニアの臨時首都)でユダヤ難民にビザを発給するに当たって、疑念がある場合には、しばしば事前に本省に許可を求めている。 外務省にはこれらの公電の記録が残っている。 これらのビザの発給は個人的な裁量において行なったものではなく、本国政府の方針に大筋において沿ったものであった。 杉原が本省の訓令に違反して、ビザを発給したため処分されたという事実はどこを捜してみても、全くない。 外務省の記録によれば、杉原がリトアニアにおいてビザを発給した難民の中に 『外国人入国取締規則』が規定していた、行き先国の入国許可と旅費と日本滞在費を所持している事という条件を満たしていない者があった為、本省から注意を受けたことがあった。 しかし、本省が出先に対して注意することは珍しいことではなく、杉原は一度として戒告処分を受けていない。 ヨーロッパにあった日本大使館や領事館も、多くのユダヤ人にビザを発給していた。 杉原だけがビザを発給していたわけではない。 杉原は外務省に下級の通訳官として入省した。 通訳官は『属官』と呼ばれる、いわゆる下積みの “ノンキャリア” だった。 杉原はカウナスからチェコスロバキアのプラハ、次にルーマニアのブカレストへ転勤して、1943年に在ルーマニア公使館に勤務中に、ようやく三等書記官に昇進した。 領事館員はウィーン条約によって、外交官と見なされていないから、杉原は三等書記官に任命されたことによって、はじめて晴れて外交官となった。 その翌年に杉原はそれまでの功績によって、『勲五等瑞宝章』を授けられている。 日本政府は杉原がユダヤ難民にビザを発給したことを全く問題にしなかったのだ。 もし、杉原がどのような形であれ、勝手にビザを発給したとして本省によって処分を受けていたとしたら、叙勲の栄誉に与ることは有り得なかった。 終戦と同時に、日本政府はアメリカ占領軍の下で、外交権を否定され、一切の外交機能を奪われた。 そこで外務省は機能がかなり縮小された為、人員整理を行なった。 多数の外務省職員が依願退職の形をとって、外務省を去っていった。 外務省の定員は1946年に2260人だったのが、翌年には凡そ3人に1人が退職を求められて、1563人にまで減った。 杉原もその中の一人に過ぎなかった。 当時の外務次官だった岡崎勝男から、それまで勤務に精励したことに感謝する実筆の私信と特別に金一封まで贈られている。 この時に、700人近くが同時に退職したのだった。 杉原が外務省を追われたというのは作りごとである。 杉原は日本において、ユダヤ人を救った人道主義者として、賛美されている。 それならば、どうして樋口や安江を同じように称えることができないのだろうか。 私は樋口や安江も同じように扱われるべきだと思う。
マーヴィン・トケイヤー: 1936年にニューヨークでハンガリー系ユダヤ人の家庭に生まれたハザール系ユダヤ人である。 彼は1962年にユダヤ神学校でラビの資格を取得し、1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の初代ラビに就任し、1976年まで日本に滞在し、ユダヤ人と日本人の比較文化論を発表した。 早稲田大学で古代ヘブライ文化を教えたこともある。 アメリカに帰国後、ユダヤ人学校の校長を歴任した。
日本政府は2006年3月、杉原千畝に関し、外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。 東京新聞の記事を載せておく。
2006年3月25日『東京新聞』の記事
“日本のシンドラー” 故杉原氏「懲戒処分なかった」 政府、定説覆す答弁書
政府は24日、ナチス・ドイツに追われたユダヤ難民に日本通過査証(ビザ)を発給して約六千人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関し、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。 同日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示した。 1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ難民に独断でビザを大量発給。 このため1947年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。 これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。 ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行なわれた事実はない」とした上、杉原氏は「1947年6月7日に依願退職」したとしている。 退職理由をめぐっては、1991年に外務省が「終戦直後の人員整理の一環だった」と表明し、杉原氏の名誉回復を図っているが、答弁書は「確認するのは困難」とした。 また杉原氏が実際に発給したビザについては「保管文書では、杉原氏は『リトアニア人とポーランド人に発給した通過査証は2132件、そのうちユダヤ系に対するものは約1500件と推定される』と報告している」と明記した。
杉原千畝のビザ発給行為は、一般には、「日本政府の意向に反して、独断で行なったものだ」と説明され、これが原因で杉原千畝は懲戒処分を受けて不遇の晩年を送った、と多くの人に信じられてきた。 しかし、杉原千畝は1944年に大日本帝国政府から勲五等瑞宝章を授けられていたのである。 杉原千畝の外務省退職の理由は、外務省職員の3人に1人が退職せざるを得ないという、戦後の中央官庁の人員整理であった。 また、「河豚計画」の関係などもあり、駐モスクワ日本大使館などは、もっと後までユダヤ人にビザを発給していたことも確認されている。
杉原千畝は1985年にイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞し、1986年に亡くなった。